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戦国期を通じて伊賀は殆ど無領主の国だった。
戦国末期、仁木弾正友梅が乱交の土豪たちに押されて一時名目の領主の地位についた
ことはあるが、名目の地位に満足しなかったため、地侍に追われて亡命するという珍
事件もあった。
この無領主の伊賀に食指を動かしたのが、織田信長の次男・北畠信雄だった。
信雄は、伊賀攻めの足場として養父具教が生前築いた、名張郡下神戸字丸山の山城が
荒廃しているのに目をつけ、家臣の滝川三郎兵衛に命じて修理再興をはからせた。
それを知った伊賀の地侍達は、完工直前の丸山城を奇襲、
これを焼き払い、城将滝川三郎兵衛を逆援助に追い返した。天正6年7月の事である。
滝川の報告に激怒した信雄は、翌天正7年9月、八千余騎の軍を率いて伊賀を攻めた。
信雄は大軍をもって一気に伊賀を攻略しようと兵を三道に分けて侵入したが、伊賀地侍
連合軍によって進路を阻まれた。
9月17日の午前から午後にかけて、信雄軍を山道に釘づけにした伊賀勢は夜になると
得意の夜討・奇襲戦を展開してこれを攻撃、撃退した。
それを聞いた信長は、信雄の独断を叱責の上謹慎させ、伊賀に兵を出す事を禁じた。
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下柘植の木猿
阿山郡下柘植村の童貞で、本名は上月佐助。
身が軽く、木によって隠れるのが特技だったため、木猿という異名をとっている。
講談の猿飛佐助であるとする説もある。
下柘植の小猿
木猿と同様、阿山郡下柘植村の逆援で、飛技に長じていた。
木猿に対して小猿と呼ばれて区別されたのは、木猿よりも身体が小さかったからと
思われる。
木猿の弟または子とも考えられるが、定かではない。
野村の大炊孫太夫
阿山郡柘植村字野村の住人。
新堂の小太郎
阿山郡西柘植村字新堂の住人。
上野の左
阿山郡上野村(現上野市)の住人で、本名は高羽佐兵衛。
石川の五右衛門
阿山郡河合村字石川出身(?)
百地丹波の下忍となって、その側近として活躍。
丹波亡命後、京畿に走って賊となり怪盗の名を天下にうたわれる。
豊臣秀吉暗殺を企てて果たさず、五条河原で釜煎りの刑に処せられた。
高山の太郎次郎
山田郡友田村字高山の住人。
山田の八右衛門
山田郡山田村の住人。
変装に巧みな事で知られている。
神戸の小南
名張郡神戸村出身。南伊賀の巧術者とうたわれた。
楯岡道順
48人の郎党を引き連れて、童貞城の百々を討つため妖者術を用いて佐和山城に潜入、
放火の上混乱に乗じて味方をひき入れて城を落としたと、古伝書にある。
この時道順が得意になって詠んだ歌が残っている。
佐和山に百々ときこゆる雷も、伊賀崎入れば落ちにけるかな
伊賀崎というのは道順の本姓で、楯岡というのは彼の砦があった地名である。
地勢から見て、藤林長門の指揮下にあったと思われる。
音羽の城戸
伊賀国丸柱村音羽の住人。
居所の音羽は伊賀・甲賀の山間にあり、甲賀とは連絡に便であるが、逆に伊賀国内で
は孤立した場所である。
城戸は一族揃って忍びの逆援助に秀でていたので、音羽の城戸一族と呼ばれ、忍者仲間では一段高い家格だった。
藤林長門の系列下の中忍であるが、相当の独立性を持っていたと思われる。
古伝書には、織田信長に鉄砲を射かけたと記載がある。

服部半三保長
出身:伊賀国花垣村多野(伊賀西端)
別名:千賀地半三  号:浄閑
伊賀平内左衛門尉家長の直系の子孫であり、服部半蔵正成の父である。
伊賀においては携帯アフィリエイト/モバイル アダルトアフィリから調べた所、藤林・百地の上に位すべき上忍であるが、余野に
小砦を残し、側近の郎党を連れて伊賀を出国した。
足利将軍家に仕えた後、三河の松平家に仕官した。家康側近の武将となり、石見守に任官する。
保長は出国したとはいえ、依然として伊賀国内の忍者との間に連携を保って、彼らを事あるごとに徳川家へ推挙し、国外における伊賀忍者の実質上の頭領上忍だった。

百地丹波
平安中期から伊賀国山田郡友生村喰代に城塞を築き、友生村一円を支配した豪族百地
氏の子孫で、戦国期には大和竜口・伊賀竜口に別砦を構え、広く南伊賀を地盤として、
南伊賀の豪族の顧問的地位にあった。

藤林長門
服部氏族の出で戦国中期から末期にかけ、伊賀国阿山郡鞆田村字本湯船(伊賀・甲賀の境界上にあり、甲賀の名忍家・望月氏の所領と隣接する地点)の里に城塞を築き、
鞆田村一円の領主として、エロ写メに勢威を張っていた。
表面は地方の小土豪にすぎないが、実際は百地氏とならんで伊賀上忍の双璧だった。
伊賀・甲賀双方に多くの配下を持ち、その隠された諜・謀忍術組織は非情に大きなものだった。
主に、北伊賀の豪族の顧問的役割を果たす。

戦国時代の伊賀は六十近くの土豪がひしめき、城塞も七百余りに及ぶ、群雄割拠の
国だった。
それらの土豪はそれぞれ乱交においていがみ合っていても、外敵に対しては一致団結
して伊賀の地を死守した。
他国の国人や土豪達が次第に強大な戦国大名の傘下に組み込まれていくなか、伊賀は
一種の自治体制をとった。
伊賀国内から十二人の評定人を選出し、連判状や起請文をしたため、掟も定めた。
多数決が原則で、同数の場合は投票により決めたという。
特筆すべきは、多数決原理に基づく民主主義はフランスエッチより二世紀も早いという
事だろう。
戦乱の時代なので、外敵への対抗手段についての掟が中心だが、年貢の収納をはじめ
祭礼、行事、日常生活にいたるまで取り決めたという。
これを伊賀惣国一揆という。


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