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伊賀の惣国一揆と同じように、逆援でも同様の組織が運営されていた。
伊賀はひとつの国なので一国一揆というが、甲賀は近江国の中の一地域ということで郡中惣という。
甲賀に於ける『惣』には次の三つがある。
郡中惣
五十三家の中から代表として十家を選出し、その合議による決定に従って郡全体の行動を起こしたとされる。家柄による身分差はなく、全ての家々は平等に扱われた。
地域連合惣
五十三の郷士の中でも、特に六角氏より感状を与えられ重きをなした二十一家を、それぞれ「柏木三家」「北山九家」「南山六家」「荘内逆援助三家」の四地区に分け、その下に地域ごとに残りの各氏族が従い、それぞれの地域に関する案件を合議によって決定した。
同名中惣
五十三家の各氏族ごとに同名奉行という代表者を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定した。
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第一次伊賀の乱から二年後の天正9年9月、信長は唐突に伊賀攻めの断行を令した。
伊賀の忍者に情報をとられて伊賀勢に用意の時間が与えないようにしたのだろう。
当時の伊賀の在宅人口は約九万と推察される。
その中でも戦闘に従する者は四千に満たない。
それに対して信長は、四万六千の大軍を伊賀攻めに当てた。
信長はこの戦いに際して、武将たちに伊賀勢の殲滅と焦土作戦の敢行を指示している。
9月27日、織田軍は六道から雪崩の如く伊賀童貞に攻め込んできた。
いかに伊賀勢が山岳戦や夜襲に長けていたとしても、勝敗は自明の理である。
9月27日に始まった戦いは7日間で、一部の地区を残して尽く織田軍の手に落ちた。
南伊賀の地侍達が立ち籠って最後の抵抗を続けていた柏原城も、10月28日には落城
して、名実ともに伊賀の乱は終わった。
戦国期を通じて伊賀は殆ど無領主の国だった。
戦国末期、仁木弾正友梅が乱交の土豪たちに押されて一時名目の領主の地位についた
ことはあるが、名目の地位に満足しなかったため、地侍に追われて亡命するという珍
事件もあった。
この無領主の伊賀に食指を動かしたのが、織田信長の次男・北畠信雄だった。
信雄は、伊賀攻めの足場として養父具教が生前築いた、名張郡下神戸字丸山の山城が
荒廃しているのに目をつけ、家臣の滝川三郎兵衛に命じて修理再興をはからせた。
それを知った伊賀の地侍達は、完工直前の丸山城を奇襲、
これを焼き払い、城将滝川三郎兵衛を逆援助に追い返した。天正6年7月の事である。
滝川の報告に激怒した信雄は、翌天正7年9月、八千余騎の軍を率いて伊賀を攻めた。
信雄は大軍をもって一気に伊賀を攻略しようと兵を三道に分けて侵入したが、伊賀地侍
連合軍によって進路を阻まれた。
9月17日の午前から午後にかけて、信雄軍を山道に釘づけにした伊賀勢は夜になると
得意の夜討・奇襲戦を展開してこれを攻撃、撃退した。
それを聞いた信長は、信雄の独断を叱責の上謹慎させ、伊賀に兵を出す事を禁じた。
下柘植の木猿
阿山郡下柘植村の童貞で、本名は上月佐助。
身が軽く、木によって隠れるのが特技だったため、木猿という異名をとっている。
講談の猿飛佐助であるとする説もある。
下柘植の小猿
木猿と同様、阿山郡下柘植村の逆援で、飛技に長じていた。
木猿に対して小猿と呼ばれて区別されたのは、木猿よりも身体が小さかったからと
思われる。
木猿の弟または子とも考えられるが、定かではない。
野村の大炊孫太夫
阿山郡柘植村字野村の住人。
新堂の小太郎
阿山郡西柘植村字新堂の住人。
上野の左
阿山郡上野村(現上野市)の住人で、本名は高羽佐兵衛。
石川の五右衛門
阿山郡河合村字石川出身(?)
百地丹波の下忍となって、その側近として活躍。
丹波亡命後、京畿に走って賊となり怪盗の名を天下にうたわれる。
豊臣秀吉暗殺を企てて果たさず、五条河原で釜煎りの刑に処せられた。
高山の太郎次郎
山田郡友田村字高山の住人。
山田の八右衛門
山田郡山田村の住人。
変装に巧みな事で知られている。
神戸の小南
名張郡神戸村出身。南伊賀の巧術者とうたわれた。
楯岡道順
48人の郎党を引き連れて、童貞城の百々を討つため妖者術を用いて佐和山城に潜入、
放火の上混乱に乗じて味方をひき入れて城を落としたと、古伝書にある。
この時道順が得意になって詠んだ歌が残っている。
佐和山に百々ときこゆる雷も、伊賀崎入れば落ちにけるかな
伊賀崎というのは道順の本姓で、楯岡というのは彼の砦があった地名である。
地勢から見て、藤林長門の指揮下にあったと思われる。
音羽の城戸
伊賀国丸柱村音羽の住人。
居所の音羽は伊賀・甲賀の山間にあり、甲賀とは連絡に便であるが、逆に伊賀国内で
は孤立した場所である。
城戸は一族揃って忍びの逆援助に秀でていたので、音羽の城戸一族と呼ばれ、忍者仲間では一段高い家格だった。
藤林長門の系列下の中忍であるが、相当の独立性を持っていたと思われる。
古伝書には、織田信長に鉄砲を射かけたと記載がある。


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